秋祭り(鉄砲隊10月10日) |
前日からの日本列島、大荒れの天気で鉄砲隊の参加が危ぶまれた!!
夜中2時半からウェザーニュースと、にらめっこ!
雨雲の動きから6時過ぎには、雨が上がると予測し用意を進めた。
5時半には若衆(息子の友人達)を自宅に集め、衣装を着せた。
願いもかない、鉄砲隊も参加できる天気になった。
氏神に参拝し、祭りの安全を祈った。
そもそも、この警固祭りとは何ぞや?と思われる方に説明をすると
その昔、あちこちの村々は豊作を願い神社に馬を献上した。
私の住む地区では、各村の氏神の親玉である豊田の猿投神社に献馬をしていた。
夜中に松明を持ち出発し、朝献上してまた一日かけて、戻っていた!!
その献上馬を護衛するために警固隊が組織された。
現在では各村の氏神に献馬の真似事をするだけになってしまった。
要するに
主役は馬なのだ。
市内の場所によっては、まだ[お馬塔祭り]と呼んでいる所もある。
しかし近年、そのパフォーマンスから祭りの主役が鉄砲へと変化した。
(馬付きには気の毒だが)
さっそく、皆で試し撃ちをする。
息子の発砲の瞬間の良い写真が撮れた!
今さらながら、この写真を見てこの祭りは危ないと思った。
今回は市制40周年と重なり、市内各連合が城山に集結しなければならない!!
私の所属する地区連合、杖つき長老衆を先頭にして
今日、一日で18Kmの行軍がはじまった。
今では山をやっているおかげで、距離自体にはひるまないが
わらじを履いて、鉄砲をかついで、アスファルトの上を歩くのは辛い!
全体行程が終り、地元に戻ってくる頃には皆ヘロヘロになっていた。
鉄砲を撃って楽しんでいるだけのような祭りだが、やはり祭りは祭りだ。
浮世離れで一日没頭し、すべてを忘れた!
さて、ここで火縄銃について説明する。
皆さん、火縄銃がどんなものかは時代劇などを見て、ご存知だとは思うが
実は、全国の火縄銃祭りで発砲に使われている銃、全て織田信長から徳川にかけての
実戦で使用されていたものとは、ご存知ないと思う。
現代銃と同様に、銃刀法で規制されている。
先込古式銃ということで、各都道府県教育委員会の管理下に置かれる、文化財である。
すべて文化財登録番号が有り、登録票のない物は表社会に出ることはできない。
平たく言えば骨董品だ。
逆に、現代の技術を持ってすれば、いくらでも作ることは可能なのだが
それでは文化財登録を取ることができない!
現代に残った発砲使用が可能な鉄砲を、日本全国から探しているのが実状だ。
一口に火縄銃といっても、長いの短いの、重いの軽いの、太いの細いのいろいろだ。
左の中筒で口径22mm、右の細筒で12mm
重さにすると6.4Kgと2.6Kgだ
さすがに6.4Kgの中筒を、合戦で使用したとは思われないが
祭りでこのクラスを一日かついでいたら、皆肩が死ぬ!
どのような仕組みかと言うと、実戦では筒先から黒色火薬を入れ、鹿革に包んだ
鉛玉を詰め、火皿に口粉(細かく砕いた火薬)をのせ、火ばさみに火縄を挟み
引き金を引く。すると前方にいた敵が倒れる!!(当たればの話だが)
なぜ日本が銃文化に立ち遅れたかと言うと、日本にはクサビという技術はあっても
ネジというものの発想がなかった。
よって、外国から入った銃の構造をみても、ネジを切ることができなかった。
西暦1500年中頃、種子島に漂流難着した中国の貿易船に乗っていた
ポルトガル人より、鉄砲2丁を手に入れたとされている。
だが、どうしてもネジを真似することができなかった!
島主は自分の娘をポルトガル人の嫁として与え、ネジの技術を教えてもらった。
そうした困難を乗り越えてやっとできたのが、国産銃[種子島]である。
これが良かったのか、悪かったのかは分からないが、瞬く間に日本の戦争の
形態も変わっていったのである。刀から鉄砲へと・・・
さて、来週はいよいよ黒部[下の廊下]だ。
長年の私の希望だった、[下の廊下]へやっと行ける!!
紅葉が楽しみだ。けど車人間の我々にはアプローチがなかなか難しい!
by 隊長